2011-03-09

ハンセン病国賠訴訟のその後

のほほんと生きてる自分、こういった方たちに出会うとき、何か出来ることはないだろうかと、自問自答してしまう。だって、私だったかもしれないのだから・・・・
そして気付く、何も出来ない自分、自分なりに想像し涙する。それしかできない。そして、今を大切にしなくては、そう気づく。悔しい思いをされた方々ヘ、知らなかったことを謝りたくなる。
娘にも この話を聞かせ、娘とも泣いた。一緒に泣いた。もし、あなたが智子さんだったら・・・と涙は止まらなかった。何も悪いことはしていないのに、45年もの長い間、社会にその存在すら認められず、母親には、1年に一度か 2年に一度しか会えない、それも隠れて。ママたち いつも一緒にいられて幸せだ、幸せだね、とまた涙。 日頃、不満をぶつけてる主人にも、少し優しくなれる気がした。

これは、戦前の話ではない。娘が生まれる一年前の1996年にようやく、らい予防法廃止
何故こんなに遅れたのだろう。
世界では1956年に、ローマ宣言:「らい患者の救済と社会復帰のための会議」でハンセン病は伝染力微弱であることを確認されていたというのに。

夢から覚めて  阿部智子さんの話 

http://www.gendaiza.org/hansen/h002-1.htm から 抜粋

 ふるさとの山に

わたしは長い間、社会復帰などということは考えたことがありませんでした。社会の生活というものはあまりに遠いものになってしまって、望んでも叶わない ことだし、身体的にも無理だと思っていたからです。それに、わたしには父も母もいませんから、もうふるさとには帰れません。
わたしは子どもの頃から隔絶された心で生きてきて、家族と呼べるものがありません。自分の死後のことを考えるとき、夢のような願いですが、自分の骨を、 ふるさとの見える山に散骨して貰いたいと思っていました。雨が降ればわたしは水に溶けて川へ流れていきます。川へ出たらわたしの家の近くを通れるのです。
それから、わたしはきっと広々とした海に出るでしょう。海へ出たら世界中を巡り歩きたい。わたしは子どものときに入園しましたから、どこにも行ったこと がありません。海に出たら、わたしの心はきっと軽くなるにちがいありません。そうしたら、魚と同じように自由に泳いで、好きなとこにどこでも行けるなあと 思っていました。


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